誕生秘話 History of Chiel Cooking

1 さまよい

夫は丸の内に勤める一流企業のサラリーマン。
私は埼玉県の小学校教諭。
20代の前半に巡り合ったふたりが結婚したのは、1993年のことでした。

1995年に息子、97年には娘を授かり、20代の終わりには現在の地に一戸建てのマイホームを建てました。

『順風満帆を絵に描いたような人生』

この頃の私たちは、現代人が考える典型的な幸せの道を、風を切って歩いていました。

ところが、数年後。
息子が保育園を嫌がって精神不安になり、夫は仕事が激務で家にも帰れない日が続くようになりました。ガリガリに痩せて、過労死の心配をするような状況になったのです。

夜、寝ている夫が息をしているか確かめ、朝は極端な睡眠不足のせいで、鼻血を出しながらフラフラと仕事に行く後ろ姿を見守るのがとてもせつなかったです。
この頃は、いつ果てるのかもわからない暗いトンネルの中にいるようでした。
子どもと私との関係も良くなく、日々の生活がうまく回らず、家族みんながつらい日々を経験しました。

この状態を打開するために、二人で仕事を辞めて、地方で農業をしようと話していました。でも、子どもたちは田舎を好まないことが分かり、夫だけ仕事を辞め、家事と育児をこなす専業主夫を一時的にすることにしました。

おかげで息子の精神不安はなくなりました。
その後、夫は家で外国産カブトムシのブリーダーをしながら、家事と子育てを担ってくれました。

ただ、家にずっといることで食べたいものをたらふく食べ、立派な体格に育ってしまいました。彼は痛風という病気を患い、一生この病気とつき合うことを余儀なくさせられました。

2 気づき

医者からは「痛風は一生治らない病気だ」と言われました。
でも、死ぬまで薬を飲み続けるなんて考えられません。
なんとかならないものかといろいろな方法を試しましたが、ことごとく失敗に終わりました。

すっかりあきらめかけていたときに、ようやく気がついたのが「食事」でした。私の友人のすすめで受診した整骨院で、「しばらく玄米菜食をしなさい」と言われたのです。

肉も魚も卵も乳製品も一切やめて、毎日玄米と少しの蒸し野菜という日々がこの日から始まりました。

私と子どもたちは学校給食という逃げ場がありましたが、夫は玄米と蒸し野菜だけの毎日です。みるみるうちに痩せていき、痛風の発作が出なくなりました。

しかし、この食事は病気治しのための食事。しょせん、我慢して食べていたので長続きはしません。

半年経ち、整骨院の先生から「そろそろ魚なら食べてもいい」と言われたら、今まで我慢してきた反動が一気に来ました。夫だけでなく私も子どもたちも、ずっとため込んできた食欲が爆発しました。

玄米菜食をする前までは食べることにさして興味がなかったのに、食べものに対する欲望と執着は激しく、自然食のバイキングに行っては山のような量を食べました。
そして、すぐに自然食ではなくただのバイキングに行くようになり、また夫の痛風が出始めました。

この頃から、痛風発作が出るのは、決してプリン体が原因ではなく、食事に含まれている添加物だということが体験から分かってきました。
プリン体が多く含まれるといわれるビールを飲んでも発作は出ず、コンビニのものや中華料理を食べると一発で発作が起こるのです。

添加物の入った現代食を食べると発作が出る。かといって、玄米菜食はもう厳し過ぎて嫌だ。いったい何を食べたらいいのかとかなり悩みました。

3 変化

人は本気で探したときに答えを手にするようです。
2006年に、ふとしたきっかけで雑穀と野菜で料理を作るという食事法に出会いました。講演会が埼玉県新座市であることを知り、夫とふたりで参加したのです。

講演会のあと、講師の方に困っている状況を伝えたら、ぜひセミナーにいらっしゃいと誘われ、夫と参加することになりました。
そこで今まで知らなかった食の知識を得て、何を食べたらいいのかということがやっと分かったのです。

私は毎月セミナーに通うようになり、その年の夏には山形で開かれている食と田舎暮らしの体験に家族全員で参加しました。

こうして、毎日の食事は雑穀と野菜になりました。

食事を整えたことで、夫の痛風発作は出なくなり、それに加えてひどかった花粉症まですっきりと治ってしまいました。
私はつらかった冷え性がなくなり、からだがぽかぽかと温かくなりました。

この料理法にすっかりはまった私は、ゆくゆくはこのことを伝えたいと願うようになりました。
教員として子どもを管理する仕事も、洗脳させる学校という場所も、だんだんと辛く感じるようになってきていました。

ようやく訪れた穏やかな時を楽しんでいた、ある日のこと。
子どもたちが、突然、学校に行かなくなりました。
2010年、二人が中学生のときでした。

もっとも「突然」と感じたのは親の方だけで、本人たちは最初から学校を嫌がっていました。

幼いうちは、親から「行きなさい」と言われたから行かざるを得なかった。それが、ようやく自分の主張をはっきり出せたのだと、今なら分かります。

当時は初めての体験で、親として戸惑い悩んだものの、1週間で吹っ切れ、子どもたちの意思を尊重したいと心から思えるようになりました。

4 原発事故

2011年3月11日。
東日本大震災が起こったとき、私は、担任していた2年生の子どもたちと今まさに帰りの挨拶をしようとしていたところでした。

すぐに机の下にもぐった子どもたち。女の子が「おかあさ~ん、こわいよ~・・・おかあさ~ん・・・」と、ふるえて泣いていた声が今でも耳に残っています。

それもそのはず、私のいた学校はなんと半壊状態。廊下は途中から50cmほど下に落ち、校舎の半分がガタッと傾き、校庭は地割れがひどかったのです。
私の教室は被害が少なかったのですが、反対側の教室は窓ガラスが全部割れて廊下に落ちていました。

子どもたちは教室にいたので誰ひとりけがをしなかったのが奇跡的なくらいでした。校庭にみんなで集まったとき高学年の女の子も泣いている子がいました。みんな本当に怖い思いをしました。

この地震で私自身もかなり揺さぶられたようです。
学校再建のために力を尽くしたいと思いながらも、放射能が死ぬほど怖くて怖くて夜も眠れないほどでした。

以前読んだ本に、浜岡原発が放射能漏れしたら、その放射能は関東までやってくると書いてありました。だから、福島の放射能も埼玉に来るのは当然と思ったのです。
しかも、爆発までしました。
とても生きた心地がしませんでした。

怖いから逃げたい。
でも、仕事があるから無理・・・
そう諦めていました。

しかし、3月16日の早朝。
急に「逃げなきゃ!」という心の声が聞こえたのです。
夫に話したら、「確かに危ないようだ。よし、逃げよう」との返事。

ここで運命が決まりました。
我が子を起こし、弁当を作り、避難のための準備をしながら、学校に電話をかけました。

あいにく留守電でしたのでメッセージを吹き込んだのですが、私が言った言葉は「申し訳ありませんが、家族で避難します。学校は辞める覚悟です」という言葉でした。

実はそのときまで仕事を辞めることなど、全く考えていませんでした。自分で自分の言葉にびっくりしたのです。

5 避難旅行

さっと支度をすませ、朝早くに家族で家を出ました。
このときは、また家に戻れるかどうかも分からないと思っていました。他の人たちも次々に避難して、日本中が大混乱になるだろうと考えていました。
車に積んだ荷物の中にはシュラフやカセットコンロなどがあり、野宿も覚悟の上でした。

目指したのは、まず大阪です。
大阪に着いてからその日の宿を探し、スマホも携帯も持たない私たちはノートパソコンを買いました。ノートパソコンでネットから情報を仕入れ、さらに西に逃げようと思っていたのです。

翌日以降の宿はネットで予約を入れました。西日本に頼れる親戚や知り合いは皆無でした。
また原発の情報はテレビに真実はないと思っていたので、ネットが欠かせませんでした。

実際、ホテルで見たテレビのニュースでは「直ちに健康に被害はない」の一点張りで安全を謳っている一方、被災地福島へボランティアに行くことを勧める内容ばかりで唖然としました。
ただ地震だけなら助けに行くことも必要でしょうが、濃い放射能が立ち込めるところへ若い人を行かせるようとする報道に腹が立ちました。

国もマスコミも頼りにならないことを痛感しました。

当初、原発事故は早くに収束されるか、あるいは爆発して関東まで立ち入り禁止区域になるか、どちらかかと思っていました。

ところが、ダラダラと放射能がもれ続けている状態でどうにもならないことが分かったので、1週間で避難は切り上げて埼玉の家に帰ることにしました。
実は、担任していた子どもたちの通知票を持って出ていたので、それを渡すために何としても終業式前には帰らなければならなかったのです。当時、郵便も宅配便もどれくらいかかるか当てにはできない状況でした。

それともう1つ。
外食続きでもういい加減体が悲鳴をあげていたのです。

放射能から逃れても添加物入り、農薬入りの外食で体を壊すわけにいかない。排毒作用のある雑穀や野菜、調味料をしっかり摂って、体の中から毒出しをしよう。

例え放射能が体に入っても、しっかり出せる体つくりをしよう。

そう心に誓って、3月23日に戻ってきました。
埼玉は放射能交じりの雨が降っていました。

この避難旅行のあいだに、この先どうやって生きていくか、私自身の腹を決め、家族にもきちんと伝えました。前々から教員を辞めたいと願っていた私にとって、実はこれは最大のチャンスでした。

時は3月。 ちょうど学年が変わる時期です。
急だったのでかなり迷惑をかけてしまいました。学校側は何度も引き留めてくれましたが、私の決意は変わらず、3月末で辞めることにしました。

21年間勤めた仕事です。
でも全く惜しくありませんでした。

当時、すでにテレビはありませんでしたが、ネットで何度も津波の映像を見ていました。あの災害で命を落とした人がたくさんいる。家族を亡くした人もたくさんいる。

私には自分の命も家族もある。
仕事がなくなることくらいは何でもない。
今こそ本当にやりたいことをやろうという、熱い思いが込み上げてきていました。

生きていく上で、本当に大事なものは何か。
真剣に考え、自分に嘘偽りなく生き、誰かの役に立ちたい。

そう思ったのです。

この原発事故で日本は放射能まみれになる。
こういうなかで生きていくためには食を正し、排泄力の強いからだをつくるしかありません。
今こそ日本中の人に正しい食を伝えたいと強く感じました。そして、この思いは今でも変わらず、胸の中で熱く燃え続けています。

今日もまだ原発の放射性物質は出続けています。日本だけでなく世界中が汚染されています。地球上、どこにも逃げるところなんてないのです。

自分のことだけでは済みません。わたしたちの子ども、その子ども、さらにその子ども・・・人類の未来を考えるならば、もうのんびりとはしていられない。できることを、精一杯やらなければと思っています。

5 立ち上げ~今

3月末で教員を辞めたことで自由の身になりました。
今後のことをしっかり決めてから動き出そうと考えていたのですが、もう早く始めたくてたまらなくなり、4月末には料理教室を始めていました。

これが「ちえ~るクッキングハウス」の前身、「つぶのいえ」です。

当初は、私が最初に教わった雑穀料理のレシピを教えていました。
はじめのうちは人数も少なく、クラスも月に1、2回しかありませんでした。

でも、楽しくて楽しくて、私はこれがしたかったんだと心から思えたのでした。夫とふたりで一緒に仕事をすることが長年の夢でしたので、心からの幸せを感じています。

2013年1月からは、本格的にオリジナルの創作料理をお伝えしていくようになりました。その頃、教室名はまだ「つぶのいえ」でしたが、料理のことは「ちえ~るクッキング」と呼んでいました。

2014年10月に、教室名も現在の「ちえ~るクッキングハウス」にあらためました。

おいしくて体に良いちえ~るクッキングの料理は、化学的な添加物はもちろんのこと、放射能すら排毒してしまう、すばらしい作用を持っています。

多くの方にこの食事の良さを知って頂き、体と心に真の健康の輝きを、そして気持ちの良い生き方を味わってほしい。そう心から願って、今に至っています。